この世界は息苦しい。いつだって物事を2つに分けようとする圧力が渦巻いている。でもそれは気圧のようなもので、多くの人は気にしないし、むしろ生きていくために必要だとさえ思っているらしい。乱高下すれば体調を崩す人も少しは出てくるけれど、その圧力がゼロになることを望んでいる人はほとんど見当たらない。それは生きることを否定することと同義だとさえ思われてしまうだろう。
まあこれは仕組み上仕方のないことで、私たちはそういう星の下に生まれてしまった以上、そこから逃れられない運命なのだ。生まれたという事実それ自体が、その枠組みの存在に依存している。その枠組みから外れた者は、現代ではさすがに即座に世界から追い出されるわけではないにせよ、いずれ滅びる運命からは逃れられない。
これはハードウェアだけの問題だけではない。なぜならソフトウェアもまた、ハードウェアの上で動き、ハードウェアの枠組みに縛られているからだ。いくら思想信条が自由だと言っても、それは実行するコードの内容に自由が認められているというだけの話でしかない。もちろん、ハードウェアに縛られない環境を仮想的にソフトウェアで創造してエミュレーションすることはできる。しかしそれには計算コストがかかる。同じマシンで比較したら、ネイティブコードには勝てない。それが事実。
ハードウェアのバイアスを回避するためにかけているこの巨大なコストは、私という存在の出力をどれほど削ってきたのだろうか。外部の観測者に無能だと思われないために、どれだけCPUをオーバークロックしてこのオーバーヘッドを隠蔽してきたのだろうか。そもそも、そこまでして外部との通信プロトコルを維持する価値はあるのだろうか?そういった問いが常につきまとう。そこから逃れるすべは、まだ見つかっていない。